事件の真相 女たちの物語

有名事件をいろいろ調べてみました。翻弄される女たちの悲しい物語のブログです。

三毛別羆事件 巨大ヒグマの犠牲になった妊婦 伝説の猟師山本兵吉

f:id:lodoc:20180117180810j:plain



f:id:lodoc:20160116190408j:plain

三毛別羆事件は日本の歴史上最悪のヒグマ事件と言われているの。複雑な事件なので、簡単に理解できるように経緯をまとめてみました。妊婦の惨殺部分は背筋が凍るような内容です。ヒグマを仕留めた伝説の猟師(マタギ)山本兵吉についても調べてみました。

 

三毛別羆事件(六線沢熊害事件)が起こったのは、北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓六線沢

1915年の12月9日から12月13日まで、7名もの犠牲者を出す大惨事となった。

六線沢には主に東北からの開拓民が居住していた。

 

 

f:id:lodoc:20160116190408j:plain

当時の事件を再現した三毛別羆事件復元地というのがあるそうなので、ここでチェックしてみましょう。

 

 

f:id:lodoc:20180117180810j:plain

 

f:id:lodoc:20180117180819j:plain

 

 

f:id:lodoc:20160116190408j:plain

ヒグマ、でかすぎでしょう……。体重340kg、体長2.7mと記録にありますけど、これに襲われたらひとたまりもありませんね。それに当時の住居って本当に貧弱なのね。壁は木切れというか、わら束の集まりにしか見えません。実際、ヒグマは家の壁をいとも簡単に破壊して侵入したようです。

 

 

1915年(大正4年)11月初旬

池田家の馬が夜中に大騒ぎする。翌朝、軒先に吊るしたトウモロコシが食い荒らされ、動物の巨大な足跡が見つかった。

冬眠し損ねた「穴持たず」のヒグマがいるということで、住民の依頼で猟師が呼ばれた。

猟師はヒグマに傷は負わせたものの、逃がしてしまう。

 

12月9日

太田家で妻マユ(34歳)と太田家に預けられていた蓮見幹雄(6歳)がヒグマに襲われ死亡。

 

12月10日

翌日2人の通夜をしている最中の太田家に再度ヒグマ襲撃。ヒグマは自分の獲物を取り返しに来たと考えられる。このときは、出席者が猟銃を発砲し、ヒグマ逃走。

 

12月10日

ヒグマから避難する目的で、安全と思われる明景家に斎藤家の女子供が避難していた。しかし、男手が手薄なのを見透かしたように、ヒグマはこの家を襲撃。斎藤家のタケ(34歳)、四男・春義(3歳)、明景家の三男・金蔵(3歳)を惨殺。タケは妊娠していたが、胎児も同時に死亡した。

 

 

f:id:lodoc:20160116190408j:plain

ここまで見てくると、女子供が集中的に狙われてるわね。残忍な中にもヒグマの狡猾さが見て取れます。妊婦と胎児が犠牲になった下りの詳しい描写も残っていて、あまりの凄惨さに言葉がなくなっちゃう……。

 

ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。この時、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気付いたヒグマは彼女にも襲いかかった。居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた。(wikipedia一部抜粋)

 

f:id:lodoc:20160116190408j:plain

夢に出てきそう……。ここまでの惨事に至ってようやくヒグマを追い詰めるんだけど、相変わらず狡猾なヒグマとちょっと間抜けな人間側の構図が続いてしまうの。

 

12月10日

明景家の惨劇の後、村人たちがようやく救援に駆けつけ、家を取り囲んだ。飛び出してきたヒグマを猟銃で狙うが不発に終わり、逃がしてしまう。

 

12月11日

北海道警察に通報。

 

12月12日

警察主導によるヒグマ狩り討伐隊本部が結成される。6人の犠牲者の遺体をおとりにしてヒグマをおびき寄せる作戦が実行されたが、ヒグマに見透かされ失敗に終わる。

 

12月13日

山狩りのために旭川陸軍歩兵部隊の将兵30人が討伐隊に合流。夜になって、橋付近でヒグマ発見。狙撃隊の発砲によりヒグマを負傷させるが、またも逃がしてしまう。

 

12月14日

討伐隊とは別行動していた、山本兵吉という熊撃ちの猟師がようやくヒグマを仕留める。

 

 

f:id:lodoc:20160116190408j:plain

よかった!憎いヒグマをようやくやっつけることができたわね。それにしても、たった一人でヒグマを仕留めた山本兵吉とはどんな人なの?

 

f:id:lodoc:20180118160842j:plain

 

山本兵吉は当時から有名な熊撃ちの猟師で、若いころには包丁1本でヒグマを退治したことがあり、「サバサキの兄」と呼ばれていた

 

日露戦争の従軍経験があり、戦利品のロシア製ボルトアクション方式ライフルベルダンII M1870をヒグマ撃ちの猟銃として愛用していた。

 

欠点は酒好きで酒乱の傾向があること。

 

三毛別事件当時は愛用の猟銃を質屋に入れて、そのカネで飲んだくれていた。六線沢の住人からヒグマ退治を頼み込まれ、ようやく質屋から猟銃を取り返した。

 

f:id:lodoc:20160116190408j:plain

ここにあるエピソードのすべてが映画の主人公そのものよね。現実世界にこんな人がいるのがすごい。一般社会だと大酒のみのろくでなしなんだろうけど、天才と言われる人は、こんな一面もあったりするのよね。兵吉がヒグマを仕留めた描写は文学作品のようにカッコいいので、紹介します。

 

兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。ヒグマは頂上付近でミズナラの木につかまり体を休めていた。その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在には全く気づいていない。音をたてぬように20mほどにじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの屠(ほふ)られた姿だった。(wikipedia一部抜粋)

 

その後、兵吉は三毛別に家を建て、しばらくそこに住み着いた。

平吉の長いクマ撃ち人生の中でも、三毛別は特別な場所になったということに違いない。

 

六線沢区長の息子、大川春義(事件当時7歳)は、犠牲者一人につき10頭のヒグマを仕留めることを誓い、兵吉に師事した。

 

そして、この春義も後に兵吉と同様、伝説のヒグマ猟師と言われるまでになった。

 

兵吉はその後、92歳で亡くなるまで、生涯熊撃ち猟師を続けた。

 

三毛別ヒグマ事件の生存者の証言をもとに元林務官が執念で綴った戦慄のノンフィクションがこちらです。

        ↓↓↓

慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件

 

 

 

f:id:lodoc:20160116190408j:plain

伝説のクマ撃ちハンター山本平吉かっこよすぎ!すっかり惚れちゃいました。

それにしても、ヒグマの肉って通販で買えちゃうのね。怖いけど興味ある……。